誤変換

稽古中、弟子に「呼吸力の養成として・・云々」と言ったところ、
なにやら笑っているので問いただすと、「呼吸力の妖精(フェアリー)」と脳内で変換されたらしく、
それを聴いた私も割と具体的な妖精のヴィジュアルを想像してしまいました。屈強なやつです。

始まりの季節

おかげ様で道場発足から丸5年が経過いたしました。
一重にご縁ある方々の後押しあればこそです。
感謝いたします。

道場の理念は揺らがないまま稽古してきました。
文武両道は不即不離の道であり、補いあう相対的道ではありません。
身体の錬磨と思考の錬磨。
どちらを欠いても不完全であるが故に、文化的な活動と言えます。
決して机上の学問と、運動能力に代表されるパフォーマンスの向上ではありません。

合理的且つ理論的な取り組みとしてはまだ途上ですが、
出来得る限り故斎藤先生の志を継ぐべく郷土に根差す所存です。

不思善 不思悪

満と貧、生と死、有と無、上手と下手など、相対的な視点は「楽」と「苦」の双方を意識させます。
例えば生きるのなら一生懸命生きて、
死ぬのなら人知の外の理に任せきる。
相対的でなければ生死を忘れるはずです。
目の前にはただ「それ」しかない以上、
生も死も事実でありながら、生にも死にも振り回されません。

武術も然りです。
どっちがどうだとか、優れている、劣っていると対比せずに、
稽古をするときは精一杯行い、技に任せきる。徹しきる。足さない。引かない。

共に空じるほどに取り組めば、技にあって技を忘れ、絶望にあって絶望を忘れます。
それこそが武氣充實として柔軟な受け入れ方に繋がります。

土地の広さは腰を落として、土をいじりながら作業をしてみないと解りません。
視野に入る大きさと、実際心身が携わった時の大きさの感じ方は尺度が違います。
想像以上に広い。
「体の変更」は初心者が行っても高段者行っても「体の変更」に変わりはありません。
しかし形と順序が同じでありながら、その理に内包された深さが違います。
想像できないほど深い。

戒める

「私は大先生の合氣道しか知らない。でも、皆さんは私の合氣道を参考にしてもらって、いろんな研究をして、自分の納得いく合氣道を作るしかないね。考え方の違う人もいるから。私は大先生の技をやりますけど、これしかやっちゃダメだってことは絶対に言いませんからね。いろんな経験をとにかく積んでもらって、良いとこは全部もらって、いくらカッコよくても役に立たない技を真似しちゃだめですよ。良いと思ったものはどんどん吸収して、自分なりの合氣道に活かしてください」

故斎藤先生が遺してくださった心にしみる言葉です。
四角四面に受け取っても寛容さが伝わりますが、
何より圧倒的な自信と合理性の裏付けという含蓄があります。

簡素な言葉に思えますが、これを独り善がりに陥らぬように実践するとなると、
尋常ではない、それこそ気が狂いそうになるほど悩む必然が生じます。

見聞を広げる

水沢道場に入門して茶帯を頂いた辺りと記憶していますが。
とある演武会でご縁を頂き、県内の半分以上の道場と県外の道場にもよく出稽古に行かせて頂きました。

合氣道には試合がありませんので道場の特性は師範に大きく左右されます。
敷居を跨いだらその場に倣うのは常識です。
どこに行っても自分の技が通用しませんでした。
いつもの癖が動きに出るたびによく注意を頂きました。
それぞれの道場には信じて取り組んできた歴史と秩序があります。
その思い入れを否定する権利は誰にもなく、まして優劣を考えるのも不条理です。

あの時期に随分と己の見聞が広がったと思います。

身内同士の稽古は楽しいです。
翻って求道者としての生産性を時間に置き換えた場合、
まったく格好がつかない、むしろ格好悪い、恥をかける場所に身を投じることの有意義。
限られた特有の場所で発揮する塵のような権威は将来へ持っては行けません。

私は師匠に出稽古を推奨されました。
「外を見て来い。良いものは持って帰って来てくれ。」と。
道場の看板を背負って他所へ出向き恥をかけば道場の評価に直結する可能性があります。
にも拘らず師匠は自身のために良いものに触れて至らない自分と向き合うことを後押ししてくれました。

特に学生さんなどは、なかなか同じ年代との交流にしか恵まれないと思います。
先輩としての威厳を失う怖さを捨ててでも、町道場に出稽古する気概がある方々も幾人か見てきました。
年齢からくる自尊心を考えると決して簡単な行動ではありません。
しかしやはりその恥と引き換えた成長は相当なものです。
個人的にはそのような貪欲さと求道心に尊敬をします。

なんとなく、
合氣道を愛好する学生諸氏の町道場との交流を思い巡らせた次第です。