内田師範講習会顛末 於 水戸合氣修練道場

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過般、茨城県水戸市にて行われた岡山合氣修練道場長内田師範の講習会に参加して参りました。
この時期の参加は久々で感慨も一入でした。
全国各地から頼もしい道兄道友諸氏が集い、合氣道に真摯で正直な技と術の世界を堪能致しました。
同じ方向を見ている心強さに加え、目を離すと追えなくなる速度の進化。
同じ方向を見続けざるを得ません。

幾分の1かでも弟子に還元できればと思ってはいますが。
なにぶん途上に乗っているかも怪しい私です。
極力誤魔化しのない、稽古でしか到達しない、王道を見据える所存です。

春らしくない快晴と暑さに、喉を潤しながらの語らいも弾みました。
この集まりの末席を汚すことのできる喜びを分かち合える日を目標に。

時間は前にしか進んでいません。
停まるということは、遅れるということです。

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なま

道場は山の上にありますので春になると虫が発生します。
越冬した輩が這い出てくるのですが、
普段寡黙で自分からは主張を面に出さない弟子が稽古後に、
「ああっ!先生!カメムシの死骸を踏んでしまいました!」と。

稽古前に掃き清めた際はいなかったので、
「生きてたやつ踏んづけたんじゃねえの?」と問いますと、
「いや、乾燥していたらしく体が割れてます!」と。
わりと冷静に分析しています。

普段感情の起伏が小さいだけに素直な態度に少し笑えます。大事件なのだなと。
「あああああっ!!ちょっ・・・ちょっと臭いっ!!!」
いちいち狼狽えるのも良い感じです(-∀-)

みちのく合気道菅原道場2017演武顛末

先日、毎年恒例の伝統的催事である日高火防祭にて、
合氣道仲間が師範を務める年少合気道場の演武が行われました。
例年世話になっているカメラマンが今年は不在につき、
本番の写真は撮れませんでしたので、準備中の一場面を紹介します。

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待機場所にて、出演するだけで黄色い声援が飛び交うという大人気のちっこい女の子が、
前かがみになりおでこに杖をくっ付けて支えにし、それを中心にぐるぐる回っています。
運動会などで野球のバットで行う似た競技がありますが・・・。
散々回って歩き始めると笑顔でフラフラです。
私が「オエッってなんねえが?」と聞くと「気持ぢわりぃ」と。
「面白ぇが?」ときくと「わがんね」と。
これでもかと言わんばかりの笑顔です。声援が飛び交う理由を垣間見ました。

このカオス状態がこのコミュニティ最大の魅力です。
演武は一生懸命が伝わり気持ちの良いものでした。
テレにも負けずに頑張ったと思います。

因果一如

努力や稽古をしたからいつか上手になるという先の話ではありません。
サボること、正しくない稽古をしかねないのに、
良いものに触れる縁を得たこと、
それ自体が有り難いことです。
良い稽古ができる縁を持ちながらそれができないのはそれ自体一つの罰の形です。

権威やブランド価値の確立。
そんなものを目的とするならどんな稽古も役に立ちません。
人知れず密かに修練を積む。
目立たず、際立たず、認めて欲しいというもの欲しさがせっかくの稽古をマイナスにします。
エゴ的行為。エゴを満たす行為。
これを信心の如く言葉で飾り美化するのは醜悪です。

風度

人に教える、伝える場合、自身の自己向上に尽力するのは当たり前です。
しかし教える側に回ると多くは自身の不完全に目を向けません。つまり努力を怠ります。
弟子も気づきます。
「良いのか?」と疑義が感じます。
すると教える側は「自分の言うことを聞かなくなってきた」と思い込みます。
ここで師匠離れと同時に弟子離れができない、
”弟子を捕まえておく”という既得権益にすり替わった師弟の関係が生まれます。
入門当初や未熟な時期を一つの基準にして、
「粋がっても、生意気言っても、所詮自分の弟子」
と思い込む。
親離れの速さに子離れがついていけない悲しさです。
良い関係を持てば「自身の気づかない自分」に目を向けさせてもらえ、自分のいたらなさに思いが至ります。
この人ならと思える”なら”に出会っておきながら、その”なら”が全く身につかないまま5年目の始まりです。