鍛錬と固い稽古

技は理論です。
生きるために知識が要るように、
共に高等であり、上等であることが望ましいものです。
しかしそれが全く役に立たないときがある。役に立たない時が来る。

根本である「体」に目を向けるとき、
老若男女、人種、何も問わず、人体としてのそれと向き合うとき、
練り上げた上等であればあるほど不必要な装身具に思える時が来ます。

そして「身体」の何たるかが見え始めた時、
もう一度脱いだそれらを拾い、凝視し、目立たぬよう更に育てる。

力は要らないのではなく要らなくなる。
想像の上を行く深い言葉です。

実相と無相

武産合氣道。
触れたところから技が産まれる。むすびです。

「無相」とは特徴づける何物もないという意味です。
現象は認識しつつ、しかしそれに囚われないこと。
「無感覚」ではただボーっとしているだけです。馬鹿になるわけではありません。
「平常心」でも行いが狂気に染まる可能性を持ちます。

素直に感じつつも執着しない。

不安定な底に在る安定した変わることのないもの。
「花弁は散っても花は散らない」
現象としての”動き”の底に在る不変の”型”。
現象として存在するものの基盤にある真実な実在。
確固たる理の上に成り立つ技。

私が小学生の頃に読んだ李小龍の印象深い言葉です。(うろ覚えですが)

私がどんな技を出すかあなたにはわからない。
それは私にもわからない。
私の技はあなたの技の結果であり、あなたの技の終結である。

吉報

世話になっている水沢道場の後輩が、
先日、居合道の6段の部で全国上位になりました。
非常に喜ばしい限りです。

小さな権威を守るための辱めに耐え向き合い、
その否定に誘発された相対的な優劣にも折り合いをつけ、
ただただ練磨した結果が芽吹いたようです。

立場の死守より、一求道者としての錬成。
稽古をする意味を体現してくれました。

教えて頂く

メディアが発達してくると現実との境界線がぼやける人が出てきます。
メディアの中はこちらの意向はお構いなしに進行しますが、
現実世界と違い、
メディアの中からは働きかけてくることもなく、働きかけることもできません。

弊害として、
他人の「一生懸命」が「自分に関係ない」と判断したりなど、
結局は皮膚感覚がないものに無感動になっていったりします。

”知識”は扱うものではありません。

信じていた技の順番や構造が実はもっと深かったら、
全ての身体操作は覆ります。
余命幾ばくもないと告知されたら、
世の中の見え方が変わって見えます。

知ることによって自分が変わるからです。
”知識”は自分を変えるものです。

なかなかに

弟子の成長が嬉しくて楽しいなと思うのです。
良い勉強相手であり、稽古相手になってくれています。
何年も坐り技ができなかったり、
それでも真っすぐ努力してきました。
稽古は嘘をつきません。
まして、素直で謙虚であれば。
相対的に見れば、決して早い成長ではないのでしょうが、
しかし確実であり、確実であるが故に伸びしろがあります。