因果一如

努力や稽古をしたからいつか上手になるという先の話ではありません。
サボること、正しくない稽古をしかねないのに、
良いものに触れる縁を得たこと、
それ自体が有り難いことです。
良い稽古ができる縁を持ちながらそれができないのはそれ自体一つの罰の形です。

権威やブランド価値の確立。
そんなものを目的とするならどんな稽古も役に立ちません。
人知れず密かに修練を積む。
目立たず、際立たず、認めて欲しいというもの欲しさがせっかくの稽古をマイナスにします。
エゴ的行為。エゴを満たす行為。
これを信心の如く言葉で飾り美化するのは醜悪です。
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風度

人に教える、伝える場合、自身の自己向上に尽力するのは当たり前です。
しかし教える側に回ると多くは自身の不完全に目を向けません。つまり努力を怠ります。
弟子も気づきます。
「良いのか?」と疑義が感じます。
すると教える側は「自分の言うことを聞かなくなってきた」と思い込みます。
ここで師匠離れと同時に弟子離れができない、
”弟子を捕まえておく”という既得権益にすり替わった師弟の関係が生まれます。
入門当初や未熟な時期を一つの基準にして、
「粋がっても、生意気言っても、所詮自分の弟子」
と思い込む。
親離れの速さに子離れがついていけない悲しさです。
良い関係を持てば「自身の気づかない自分」に目を向けさせてもらえ、自分のいたらなさに思いが至ります。
この人ならと思える”なら”に出会っておきながら、その”なら”が全く身につかないまま5年目の始まりです。