紡がれる縁

先日、北海道から道友が二人稽古に来ました。
(九州とか北海道とか遠くから来ていただくと毎回拙い自分に申し訳なく思う)

近隣には岩間流の道場皆無ということです。
稽古自体は基本の基本の更に入口程度に留めましたが、
前提はとても大切です。
出来ているということが前提で型を学びます。
半身を知らずに合氣道が理解できないのと同じです。
なんとなく形を追って砂上の楼閣になっては積み上げる時間が無駄になります。
有段者になるとなかなか改めて見直さないかもしれません。

ボリュームはありませんでしたが楽しんでいただけたことは有難いです。

聞けば岩手大学のOBで、当時は私の主観ではまさにすごい時代。
現在一線で活躍なさっている師範の皆様の知らなかった側面。
そんな話がとても興味深く楽しめました。
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覚えたら忘れる

『幽』を”無心に流れるもの”と表すことがあります。

心が留まれば本性が失われ、
流れてこその水が留まれば腐ります。

囚われつつ流され
流されつつ囚われる。

『主体性』については尊敬する師範に言及していただきました。

技は゛型”として伝えられます。
しかし伝えられたこと、自分が汲み取れるレベルが全てではありません。
それを全てだと思い、解釈の至らなさを無視し
「こうでなくてはいけない!」
とやってしまっては自己の成長の将来性は何処にあるのでしょうか。

流れに従って流れに任せず。
型稽古に身を置く我々には必要で困難な条件です。

とある日の一場面

1週間道場を開けるとものすごいゴミです。
なのでいつもよりも念入りに稽古前に掃き清めます。

弟子が早い時間に来ましたがずーっと帯と格闘。
数回教えたのですが、まだ締め方が頭に入っていません。
その間私はずーっとお掃除継続。

師範や先輩が掃除している時に・・・という話ではありません。

問い詰めたわけではありませんが、
数回教えてもらっていることをまた聞き直すことに何か感じでいたのでしょう。
20分以上。

例えばそれを恥ずかしいと思うとか、
申し訳ないと思っているのなら大切な感情です。
聞くことは悪くありません。
むしろ聞かないといけません。
そこに内在する遠慮が”正しくない”方向へ引っ張ることはありえます。
正すために、恥や申し訳なさを感じるのなら
きっと”この1回で覚えなくてはいけない”という気概が産まれます。

その意識で常に稽古に臨めれば良いです。

師範も先輩も呆れることはありません。
何回でも教えます。