和して同ぜず

和を感じられれば他を敬います。
そして互いに敬うからこそ和が成り立ちます。

戦わないことが平和ではありません。
各々の怨み怒り憎しみが整理され和えられる。
そこではじめて心の平和の萌芽がある。
憎しみや嫉妬の牙を密かに研ぎながら平和運動を提唱する空虚。

行として、道としての実践。

「仲良く」だけでは不十分です。
和え物は二種以上の味を混ぜて第三の味を産みます。
材料がめいめい勝手な味を出していては和え物にはなりません。

個人の集まりが自己主張の見せ合いでは和は成立しません。
各人の異なる個性を和え合う。
相互の持ち味を生かし、誰にもない第三の味を産むからこその和。
よりそんな道場にしたいと思います。

和合と混合は違います。
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鍛錬と固い稽古

技は理論です。
生きるために知識が要るように、
共に高等であり、上等であることが望ましいものです。
しかしそれが全く役に立たないときがある。役に立たない時が来る。

根本である「体」に目を向けるとき、
老若男女、人種、何も問わず、人体としてのそれと向き合うとき、
練り上げた上等であればあるほど不必要な装身具に思える時が来ます。

そして「身体」の何たるかが見え始めた時、
もう一度脱いだそれらを拾い、凝視し、目立たぬよう更に育てる。

力は要らないのではなく要らなくなる。
想像の上を行く深い言葉です。

実相と無相

武産合氣道。
触れたところから技が産まれる。むすびです。

「無相」とは特徴づける何物もないという意味です。
現象は認識しつつ、しかしそれに囚われないこと。
「無感覚」ではただボーっとしているだけです。馬鹿になるわけではありません。
「平常心」でも行いが狂気に染まる可能性を持ちます。

素直に感じつつも執着しない。

不安定な底に在る安定した変わることのないもの。
「花弁は散っても花は散らない」
現象としての”動き”の底に在る不変の”型”。
現象として存在するものの基盤にある真実な実在。
確固たる理の上に成り立つ技。

私が小学生の頃に読んだ李小龍の印象深い言葉です。(うろ覚えですが)

私がどんな技を出すかあなたにはわからない。
それは私にもわからない。
私の技はあなたの技の結果であり、あなたの技の終結である。

絶対「一」の尊厳性

差別することでの存在の明確化。
「似たもの」はいくらでもあります。
しかし「自ら」は唯一つの存在です。

「斬る」という行為一つとっても素人には見分け難い。
斬るという動きにおいては等しい。
しかし「順序をなぞるだけ」と「型どおり」では質が異なります。

型に身を投げ込む、型に溶け込む、
斬るという「体の働き」と、「剣」という別個のものが
主客とも一色になる。
果ては空じるほどになる。

「一緒」や「平等」は対比による価値です。
「同時」や「同じ」はそれ自体です。

動けば型どおり。
一か八かのない「順序」と「型」の差別。

岩間で完成した「大先生の合氣道」と、理のない独り善がりの「っぽいもの」。
まだまだ”合氣道”という門の前にすら立たせて頂いておりません。

七花八裂

水と油を混ぜてもすぐにわかります。
似て非なるもののたとえです。

白という色を否定するために白以外の色を使うのは相対的な認識です。
力を否定するために脱力するのか?
否。

力を否定するために力自らを使う。
粉々に、痕跡も残さぬほど、分解する、分散する、一つ処から抜いていく。
執着をしない、無執着という心情すら留めない。

白銀の器の上に白銀の雪を盛る。
一見どちらも引き立っていないかのような絵です。
力は要らないのではなく要らなくなるのです。
運動という現象がある以上そこには確実にありながら感じさせない。

「わしはただそこに立っておればいい」
別次元であり俗人には理解しがたい境地です。