現出と錬成

花は散りやすいです。
しかし無心に、精一杯咲きます。
故に真実を感じます。

陶器なども壊れやすいです。
故に丹精して、大切に使います。
すると価値が生じます。
つまり「竈を出て完成」ではなく、そこから始まるのです。

一見無常観のようであり、
しかしながら、技であり、術の如くあるな、と感じます。
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一期一会

徳の高さを量るときに、「執着しない」ことを見る時があります。
何かが起きた時に心身が動いても、
過ぎれば忘じて心身が元の空虚に戻る。
つまりいつまでも固執し、心身の働きを浪費することがありません。

長じて人の縁も然り。
会った時が別れです。

技にも言えることは解ります。
が、ここが合わせとの折り合いの難しいところです。

お茶と一緒で、
同じ出会いは二度となく、いくたび同じ人と会ってもその都度が違います。
人は自らを深めますし、求道者であればその居心地の良い場を守らずに更に高めます。
会うたびに違う人間であるかの如く変化します。
そこに関わる主体である自己が、
その時々の真実の自己との邂逅を要求される。
顧みて初めて自己の至らなさを認識し稽古を楽しめます。

目標は、盲信を誘うのではなく、
体験を通して実感させてくれる存在でありたい。
その思いを新たにした次第です。

唯一絶対

1教は1教。
5級の門人でも7段の師範でも同じ1教です。
道も今昔変わるものではありません。

2つのものの対立と比較。
えてして差別を的確にするには、知識が進むほど複雑になります。
さらに数が増えれば尚更です。
比較を論ずれば争う心が芽生えることもあるでしょう。

「武は愛なり」と大先生は仰いました。
合氣道は合わせの武道です。
相対的認識や観念を空ずる。
それに必要なのは絶対的知識です。

「私は合氣道を行ずる。」では、彼我相対として合氣道の認識が生まれ、
その合理性、強さ、機能美など、己の流派と甲乙比較するものを要します。
つまりどこまでも相対的です。
独り善がりな思い込みで「理を創る」愚者も起こるでしょう。

「私が」ではなく合氣道そのままを見ることです。学ぶことです。

1教は1教。
「どちらの」ではなく「合氣道の1教」を知り、学び、感動する。

小競り合いをする暇はありません。
大先生の遺された合氣道そのものに、
心を整地し、一求道者として臨めば、
今昔変わらぬ道なれど、その景色は全く変わって見えます。

不思善 不思悪

満と貧、生と死、有と無、上手と下手など、相対的な視点は「楽」と「苦」の双方を意識させます。
例えば生きるのなら一生懸命生きて、
死ぬのなら人知の外の理に任せきる。
相対的でなければ生死を忘れるはずです。
目の前にはただ「それ」しかない以上、
生も死も事実でありながら、生にも死にも振り回されません。

武術も然りです。
どっちがどうだとか、優れている、劣っていると対比せずに、
稽古をするときは精一杯行い、技に任せきる。徹しきる。足さない。引かない。

共に空じるほどに取り組めば、技にあって技を忘れ、絶望にあって絶望を忘れます。
それこそが武氣充實として柔軟な受け入れ方に繋がります。

土地の広さは腰を落として、土をいじりながら作業をしてみないと解りません。
視野に入る大きさと、実際心身が携わった時の大きさの感じ方は尺度が違います。
想像以上に広い。
「体の変更」は初心者が行っても高段者行っても「体の変更」に変わりはありません。
しかし形と順序が同じでありながら、その理に内包された深さが違います。
想像できないほど深い。

和して同ぜず

和を感じられれば他を敬います。
そして互いに敬うからこそ和が成り立ちます。

戦わないことが平和ではありません。
各々の怨み怒り憎しみが整理され和えられる。
そこではじめて心の平和の萌芽がある。
憎しみや嫉妬の牙を密かに研ぎながら平和運動を提唱する空虚。

行として、道としての実践。

「仲良く」だけでは不十分です。
和え物は二種以上の味を混ぜて第三の味を産みます。
材料がめいめい勝手な味を出していては和え物にはなりません。

個人の集まりが自己主張の見せ合いでは和は成立しません。
各人の異なる個性を和え合う。
相互の持ち味を生かし、誰にもない第三の味を産むからこその和。
よりそんな道場にしたいと思います。

和合と混合は違います。