因果一如

努力や稽古をしたからいつか上手になるという先の話ではありません。
サボること、正しくない稽古をしかねないのに、
良いものに触れる縁を得たこと、
それ自体が有り難いことです。
良い稽古ができる縁を持ちながらそれができないのはそれ自体一つの罰の形です。

権威やブランド価値の確立。
そんなものを目的とするならどんな稽古も役に立ちません。
人知れず密かに修練を積む。
目立たず、際立たず、認めて欲しいというもの欲しさがせっかくの稽古をマイナスにします。
エゴ的行為。エゴを満たす行為。
これを信心の如く言葉で飾り美化するのは醜悪です。
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心身

風は目に見えません。
しかし仰ぐという行為で肌に存在を実感できます。
灯の揺れにも見えぬ動きを実感できます。

有限のものに無限の動きが内観できるということです。

随分前のことです。
先生に
「強く握るにはどうすればいいですか?どうすればより強く握れますか?」
と聞いたことがありました。
「ただ握るということに注心する。それ以外に何かあるのか?」
逆に問われました。

コツや小細工で見違えるように技の次元が変わることなどあり得ないのです。
その次元の動きの存在を知ってはいても具体的な実感がない。
何かが足りないからだと自信に言い訳するのは休むに似たりです。

風を感じるためにただ仰ぐように。
実践の繰り返しで経験することでしか感じることはできません。
頭を使った稽古の中にのみ萌芽はあります。

主体性

自己の置かれた場所で隙なく精一杯やる。
自己を投入して愛情を惜しまなければそこかしこに意味を見つけることができます。
生きがいを、与えること、味わうこと、耐えること、とされることがあります。
つまり随所作主立処皆真という言葉のままです。

没入して稽古し、疑い、修正し、また確認する。
終わりなき愉しい行いです。
答えは示されているのに、本質を見せて頂いているのに、見えていない事の自覚。

明国の末に興った『六然』
自己にとらわれず脱けきる
人にはいつも和やか
事あれば活気に満ち
無事なれば心澄み
得意の時はあっさりと
失意の時も落ちついて

我々が稽古を重ねるうえで余計な力を抜いていく一つの心持です。

自分で蒔いた種

謙虚は美徳です。
追い風吹く主観的幸運時に破局の種は蒔かれます。
不幸に際し不幸が始まるのではなく、好調の時に破局の兆しが起きます。

恵まれた主観的幸運をいい気になり、欲しい侭にすれば、
源泉は枯渇し、縁の糸すら切れます。

自分の分は決まっている、と取れば、
「程を知る」「足るを知る」に留まります。

それ以上に徳を積むことが肝要です。
それも人知れずが良い。
人知れず積んだ徳が、型として、技として、縁として、最後は残ります。

愚直

愚の骨頂という言葉が有り、あまり良い意味では使われません。

馬鹿になるのは骨が折れても利口には誰もがそれなりに及びます。

愚への傾倒が謙遜ではなく求道心に臨む自覚だとすると、
利口になる手段とは違い学問は教えてくれない境地とも言えます。

『莫迦』という字は『愚』が転じたものです。

『こだわる』と言う言葉も本来は良い意味では使わないものです。
『愚』も同様です。

取り組む姿勢は愚で良いと思います。
愚直という態度は美徳だと思います。
才があれば才を頼みます。
しかし愚なればこそ愚を守り、
故に愚になりません。