奇数と風流

割り切れずに無限な奇数。
そこが風流であり面白みです。
何においても割り切れる合理性だけでは趣きはありません。
不合理、矛盾、この面白みはあれど、
ことさらにいびつを求めるのは悪趣味です。
風流を求めつ、しかし囚われればかえって不風流です。
型破りの妙味。規格外れ。
しかしそれは型なり規格なりを修めたうえでできる無軌道の軌道です。
自由に見えて押さえるべき点は押さえている。模倣ではない。求めてなお囚われない。
何も知らない塵のような権威、得意は我流と言えます。

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みちのく

道には「関(かん)」という狭い門があると言います。
地上で言えば昔は関所、屋敷なら玄関を通らないと奥座敷へは行けません。
いずれにせよ易々とは行けないということです。
越えなければ奥など解りようがありません。

道という以上自我を出しては通ることは許されない「関」があります。

迷いから悟りへの飛躍は容易ではありません。
相対から絶対へ。
”みんな一緒”へ。

答えが複数でも支障がない。
固体、柔体、流体、気体。
相対的な認識を超えます。
比べるからこその表現。 固い稽古とは? 気の流れの稽古とは?
迷うだけで答えなど出るはずがありません。
「違う」ものではありません。だから「段階的に」と教わります。

因果一如

努力や稽古をしたからいつか上手になるという先の話ではありません。
サボること、正しくない稽古をしかねないのに、
良いものに触れる縁を得たこと、
それ自体が有り難いことです。
良い稽古ができる縁を持ちながらそれができないのはそれ自体一つの罰の形です。

権威やブランド価値の確立。
そんなものを目的とするならどんな稽古も役に立ちません。
人知れず密かに修練を積む。
目立たず、際立たず、認めて欲しいというもの欲しさがせっかくの稽古をマイナスにします。
エゴ的行為。エゴを満たす行為。
これを信心の如く言葉で飾り美化するのは醜悪です。

心身

風は目に見えません。
しかし仰ぐという行為で肌に存在を実感できます。
灯の揺れにも見えぬ動きを実感できます。

有限のものに無限の動きが内観できるということです。

随分前のことです。
先生に
「強く握るにはどうすればいいですか?どうすればより強く握れますか?」
と聞いたことがありました。
「ただ握るということに注心する。それ以外に何かあるのか?」
逆に問われました。

コツや小細工で見違えるように技の次元が変わることなどあり得ないのです。
その次元の動きの存在を知ってはいても具体的な実感がない。
何かが足りないからだと自信に言い訳するのは休むに似たりです。

風を感じるためにただ仰ぐように。
実践の繰り返しで経験することでしか感じることはできません。
頭を使った稽古の中にのみ萌芽はあります。

主体性

自己の置かれた場所で隙なく精一杯やる。
自己を投入して愛情を惜しまなければそこかしこに意味を見つけることができます。
生きがいを、与えること、味わうこと、耐えること、とされることがあります。
つまり随所作主立処皆真という言葉のままです。

没入して稽古し、疑い、修正し、また確認する。
終わりなき愉しい行いです。
答えは示されているのに、本質を見せて頂いているのに、見えていない事の自覚。

明国の末に興った『六然』
自己にとらわれず脱けきる
人にはいつも和やか
事あれば活気に満ち
無事なれば心澄み
得意の時はあっさりと
失意の時も落ちついて

我々が稽古を重ねるうえで余計な力を抜いていく一つの心持です。