自分のために

情報が増えるということは、引き出しが増える素養の現れです。

知ることで意識が無意識に働きかけ、動きの質的変化が起こることは一般的であり、
万人に共通する極めて普通のことです。
とにかく知ること。
シャットアウトせず、知ること。
「自分には必要ない。」と言うのは無様な自尊心です。
研究している「つもり」ではなく研究すること。
底が知れればそれまで。取捨選択の自由は自分にあります。


技をいただいている以上、口伝は一切変えてはいけません。
一分一厘狂っても技にならないのであれば、一分一厘にこだわる。
「だいたい」ではダメ。
「こんな感じ」でもダメ。
理論が備わっていないとダメ。
技だからです。
長じて術になるからです。

新しい知識が己に入ってきた時に従前の知識が古くなるのは良いです。
でも嘘になってはいけません。深化こそすれ。

技は刷新していって然りです。日々です。
時間は前にしか進みません。決して戻りません。
「停まる」ということは「遅れる」ということと同義となります。
過去の威光は結局過去であるということです。

新しい知識がその過去を肉付けし、更に確たるものにするのが道です。
愚直に続けることも身にするための手段なれど、
その1回1回に必ず思考を介在させねばなりません。

「師匠の進化は弟子の及ぶところじゃねえ。」
「氣の抜けた素振りを1000回やるなら氣の入った素振り3べんで良い。」
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戒める

「私は大先生の合氣道しか知らない。でも、皆さんは私の合氣道を参考にしてもらって、いろんな研究をして、自分の納得いく合氣道を作るしかないね。考え方の違う人もいるから。私は大先生の技をやりますけど、これしかやっちゃダメだってことは絶対に言いませんからね。いろんな経験をとにかく積んでもらって、良いとこは全部もらって、いくらカッコよくても役に立たない技を真似しちゃだめですよ。良いと思ったものはどんどん吸収して、自分なりの合氣道に活かしてください」

故斎藤先生が遺してくださった心にしみる言葉です。
四角四面に受け取っても寛容さが伝わりますが、
何より圧倒的な自信と合理性の裏付けという含蓄があります。

簡素な言葉に思えますが、これを独り善がりに陥らぬように実践するとなると、
尋常ではない、それこそ気が狂いそうになるほど悩む必然が生じます。

未熟の有難味

故斎藤先生が仰っていた言葉で

「力主体でやる人は強いつもりでいるけど技が通用しない。合氣道ではない。呼吸法ではない。
呼吸法ってのは体を鍛えた力ではない。
ああでもない。こうでもない、ってやってると力を出せなくなる。
ああやれ、こうやれ、で出なくなっちゃう。
何でこんなことしなきゃいけねえんだろう?って。
そのうち武氣が段々充実してきたなら、
それがいわゆる術。呼吸法という術。」

当時の理解はザックリ過ぎて『そういうものなのか』程度の解釈でした。
今現在。この言葉は深みを増して心に座っています。

自転車

具体的な修行の先は「道」になり、道が完成すると「型」になります。

身体表現は無意識ですので理屈にするのは難しいです。
真似をして、できず、仮にできても、できた理由に理屈がつけられない。
真似をする対象の存在はかくも有り難く、
理屈として腑に落ちることは、並大抵ではありません。

初心

衣に刀と書いて「初」です。
あたらしい着物を作るために新しい布にハサミを入れる。
だから新しい境地に至るために己を1度切る必要があります。

途上にいれば変化は可能です。
従前にこだわれば歩も止まります。

長く進んできた研鑽者ほど勇気を伴いますが、
進むか止まるかではありません。
変わるか止まるかです。