教えて頂く

メディアが発達してくると現実との境界線がぼやける人が出てきます。
メディアの中はこちらの意向はお構いなしに進行しますが、
現実世界と違い、
メディアの中からは働きかけてくることもなく、働きかけることもできません。

弊害として、
他人の「一生懸命」が「自分に関係ない」と判断したりなど、
結局は皮膚感覚がないものに無感動になっていったりします。

”知識”は扱うものではありません。

信じていた技の順番や構造が実はもっと深かったら、
全ての身体操作は覆ります。
余命幾ばくもないと告知されたら、
世の中の見え方が変わって見えます。

知ることによって自分が変わるからです。
”知識”は自分を変えるものです。
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なかなかに

弟子の成長が嬉しくて楽しいなと思うのです。
良い勉強相手であり、稽古相手になってくれています。
何年も坐り技ができなかったり、
それでも真っすぐ努力してきました。
稽古は嘘をつきません。
まして、素直で謙虚であれば。
相対的に見れば、決して早い成長ではないのでしょうが、
しかし確実であり、確実であるが故に伸びしろがあります。

一か八かはあり得ない

いわゆる”自分探し”に代表される「歴史主義」信仰。
「こんなことしてる場合じゃない!」と思い立ったように何かを始めたりする年若い方々を見ます。
そのエネルギーは大変なものだと思います。続くのであれば。

その発露を自己否定の上に成り立たせるのなら如何なものでしょうか。
”変わらないもの”と”変えてはいけないもの”、
”守るべきもの”を理解した上での進化や深化ならこの上ありません。

「この仕事は自分に合わない」というのも同じです。
『仕事』は携わる個人に合わせてなどいません。
世の中に必要だから『仕事』として生まれたのであって、
むしろそこに理解が及べば自分が合わせることで社会は前へ進みます。

歴史を年表に表せば有事の繋がりです。
現実の歴史は”何もなかったとき”、”何も起こらないように努力した時間”が遥かに多い。
変えない辛抱、守る困難。
年表に載るのは一部でしかないはずです。

心理を廃した『体』という、一定の条件を持った共通する対象。
そこに合わせることで百発百中の『仕事』ができるのが『型』です。

型を学ぶ

一分一厘狂っても技にならん。
”何”から狂ってはいけないのでしょうか。

3日習ったら3日分教えればいい。
「私なんてまだまだ。」は言い訳、ということになります。

理屈は後からついてきます。武道である以上動けてなんぼです。
私は「貰いっぱなしじゃ泥棒だぜ。」と10年以上前に言われました。
言葉のまま受け取れば
”自分だけ強くなれば、知っていれば、それで良い”
という価値観が芽生えることの戒めだと思ったものです。

受け取ったままだと原形のまま保存されます。
追体験しかねる相手にそのまま伝えることは、必ずしも満点の対応ではありません。
その相手に”合わせた”所作と言葉を選び、「自分の言葉」として適切に変換して伝える。
ただし”何も足さない 何も引かない”。
さも教えであるかのように創るなどもっての外です。
「角のドーナツ屋さんの壁の色みたいな」では”角のドーナツ屋さん”を知らない人には伝わりません。

仮に伝えることを前提として受け取るならば、稽古に臨む姿勢も次元も変わります。
教える立場というのは容易ではありません。
弟子の3倍稽古するというのも最もです。
伝えるためには出来なければいけない。理解しないといけない。
良いと悪いの判別をする指針はどこにあるのでしょう。

最新である岩間流合氣道の固い稽古は”お堅い稽古”です。
失伝してはいけないものと思考します。
見聞の狭い己でも、”自由”と”勝手”の区別はつきます。

合氣道と合氣道っぽいものの境界線はあるということです。
説得力とは洗脳ではありません。
俗に堕ちないためにも、絶えず大先生を見て精進が必要です。

「その道場がどんだけのものか弟子見りゃわかる。見てみろ。俺の弟子は皆強ぇぞ。」
憧れの極みです。

なま

道場は山の上にありますので春になると虫が発生します。
越冬した輩が這い出てくるのですが、
普段寡黙で自分からは主張を面に出さない弟子が稽古後に、
「ああっ!先生!カメムシの死骸を踏んでしまいました!」と。

稽古前に掃き清めた際はいなかったので、
「生きてたやつ踏んづけたんじゃねえの?」と問いますと、
「いや、乾燥していたらしく体が割れてます!」と。
わりと冷静に分析しています。

普段感情の起伏が小さいだけに素直な態度に少し笑えます。大事件なのだなと。
「あああああっ!!ちょっ・・・ちょっと臭いっ!!!」
いちいち狼狽えるのも良い感じです(-∀-)