風度

人に教える、伝える場合、自身の自己向上に尽力するのは当たり前です。
しかし教える側に回ると多くは自身の不完全に目を向けません。つまり努力を怠ります。
弟子も気づきます。
「良いのか?」と疑義が感じます。
すると教える側は「自分の言うことを聞かなくなってきた」と思い込みます。
ここで師匠離れと同時に弟子離れができない、
”弟子を捕まえておく”という既得権益にすり替わった師弟の関係が生まれます。
入門当初や未熟な時期を一つの基準にして、
「粋がっても、生意気言っても、所詮自分の弟子」
と思い込む。
親離れの速さに子離れがついていけない悲しさです。
良い関係を持てば「自身の気づかない自分」に目を向けさせてもらえ、自分のいたらなさに思いが至ります。
この人ならと思える”なら”に出会っておきながら、その”なら”が全く身につかないまま5年目の始まりです。
スポンサーサイト

前提 その②

竹刀でのルールある試合では、面、小手、胴ときれいに打ち込んで一本です。
ゆえにその枠組みの中でテクニックを磨き、勝つすべを勉強します。
それは競技体系としての一つの形です。
門外漢から見ても厳しく険しい世界であることは容易に想像がつきます。

標準的な日本刀の重量で1.2キロ以上です。
その剣を振れば剣尖にはその6倍の遠心力がかかります。
人の骨肉を断つには何の苦労もいらない勢いが刀身に乗るのです。
わずかに触れるだけで皮肉は斬れるということです。
鍔越しに拳をわずかに削っただけでも、勝敗に重大な影響を与えます。
体のどの部分であろうと、斬ってさえしまえば著しく戦力を奪います。
技量の巧拙のみでは計れない、不慮の事故の恐れもあります。

「合氣道は皮一枚惜しむ」

我々が己を磨く土壌は前述の前提があります。
しかも対複数で、ルールはありません。

前提 その①

見学や体験入門者の中には
「相手の力を利用する」「気で飛ばす(触らないで倒す)」
と言った幻想や疑問を抱いてくる方がいらっしゃいます。
悪意は感じられませんし、思い込み自体は罪ではありません。
そう思うに至らせた喧伝材料は世に溢れていますが。

「剣術です。」
と答えます。
もちろん稽古方法や理論、哲学、成り立ち、全てを網羅する答えとは思ってはいません。
あくまで当道場における取組、
私が思案し続けている輪郭として、
「合氣道とは?」との問いかけにそのように応じています。


ささやかな愛国心

出先で、あろうことか定価の3分の2で販売していましたので即決で購入いたしました。
スタッフの方は老齢の方々に促していたようで、対応が不自然でした。
が、世代問わず安らぐ大和心もあるのです。

DSCF2135.jpg

良いなと

神事なのか、土地の風習なのかは不明ですが、
某筋から「乾杯」の意味として、それを境に無礼講になると耳にしました。
(情報ソースはテレビのようでしたが)

確かにお祝いの儀礼など、その前後では場の作り方が一変します。
儀式や挨拶など礼式に則った場から余興などを披露する空気になります。

諸説の中の一説としても”なるほど”と思う反面、
皇弥栄と発っする大和魂は合氣道場としてそぐうと思った次第です。