見聞を広げる

水沢道場に入門して茶帯を頂いた辺りと記憶していますが。
とある演武会でご縁を頂き、県内の半分以上の道場と県外の道場にもよく出稽古に行かせて頂きました。

合氣道には試合がありませんので道場の特性は師範に大きく左右されます。
敷居を跨いだらその場に倣うのは常識です。
どこに行っても自分の技が通用しませんでした。
いつもの癖が動きに出るたびによく注意を頂きました。
それぞれの道場には信じて取り組んできた歴史と秩序があります。
その思い入れを否定する権利は誰にもなく、まして優劣を考えるのも不条理です。

あの時期に随分と己の見聞が広がったと思います。

身内同士の稽古は楽しいです。
翻って求道者としての生産性を時間に置き換えた場合、
まったく格好がつかない、むしろ格好悪い、恥をかける場所に身を投じることの有意義。
限られた特有の場所で発揮する塵のような権威は将来へ持っては行けません。

私は師匠に出稽古を推奨されました。
「外を見て来い。良いものは持って帰って来てくれ。」と。
道場の看板を背負って他所へ出向き恥をかけば道場の評価に直結する可能性があります。
にも拘らず師匠は自身のために良いものに触れて至らない自分と向き合うことを後押ししてくれました。

特に学生さんなどは、なかなか同じ年代との交流にしか恵まれないと思います。
先輩としての威厳を失う怖さを捨ててでも、町道場に出稽古する気概がある方々も幾人か見てきました。
年齢からくる自尊心を考えると決して簡単な行動ではありません。
しかしやはりその恥と引き換えた成長は相当なものです。
個人的にはそのような貪欲さと求道心に尊敬をします。

なんとなく、
合氣道を愛好する学生諸氏の町道場との交流を思い巡らせた次第です。
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吉報

世話になっている水沢道場の後輩が、
先日、居合道の6段の部で全国上位になりました。
非常に喜ばしい限りです。

小さな権威を守るための辱めに耐え向き合い、
その否定に誘発された相対的な優劣にも折り合いをつけ、
ただただ練磨した結果が芽吹いたようです。

立場の死守より、一求道者としての錬成。
稽古をする意味を体現してくれました。

教えて頂く

メディアが発達してくると現実との境界線がぼやける人が出てきます。
メディアの中はこちらの意向はお構いなしに進行しますが、
現実世界と違い、
メディアの中からは働きかけてくることもなく、働きかけることもできません。

弊害として、
他人の「一生懸命」が「自分に関係ない」と判断したりなど、
結局は皮膚感覚がないものに無感動になっていったりします。

”知識”は扱うものではありません。

信じていた技の順番や構造が実はもっと深かったら、
全ての身体操作は覆ります。
余命幾ばくもないと告知されたら、
世の中の見え方が変わって見えます。

知ることによって自分が変わるからです。
”知識”は自分を変えるものです。

なかなかに

弟子の成長が嬉しくて楽しいなと思うのです。
良い勉強相手であり、稽古相手になってくれています。
何年も坐り技ができなかったり、
それでも真っすぐ努力してきました。
稽古は嘘をつきません。
まして、素直で謙虚であれば。
相対的に見れば、決して早い成長ではないのでしょうが、
しかし確実であり、確実であるが故に伸びしろがあります。

一か八かはあり得ない

いわゆる”自分探し”に代表される「歴史主義」信仰。
「こんなことしてる場合じゃない!」と思い立ったように何かを始めたりする年若い方々を見ます。
そのエネルギーは大変なものだと思います。続くのであれば。

その発露を自己否定の上に成り立たせるのなら如何なものでしょうか。
”変わらないもの”と”変えてはいけないもの”、
”守るべきもの”を理解した上での進化や深化ならこの上ありません。

「この仕事は自分に合わない」というのも同じです。
『仕事』は携わる個人に合わせてなどいません。
世の中に必要だから『仕事』として生まれたのであって、
むしろそこに理解が及べば自分が合わせることで社会は前へ進みます。

歴史を年表に表せば有事の繋がりです。
現実の歴史は”何もなかったとき”、”何も起こらないように努力した時間”が遥かに多い。
変えない辛抱、守る困難。
年表に載るのは一部でしかないはずです。

心理を廃した『体』という、一定の条件を持った共通する対象。
そこに合わせることで百発百中の『仕事』ができるのが『型』です。