なかなかに

弟子の成長が嬉しくて楽しいなと思うのです。
良い勉強相手であり、稽古相手になってくれています。
何年も坐り技ができなかったり、
それでも真っすぐ努力してきました。
稽古は嘘をつきません。
まして、素直で謙虚であれば。
相対的に見れば、決して早い成長ではないのでしょうが、
しかし確実であり、確実であるが故に伸びしろがあります。
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未熟の有難味

故斎藤先生が仰っていた言葉で

「力主体でやる人は強いつもりでいるけど技が通用しない。合氣道ではない。呼吸法ではない。
呼吸法ってのは体を鍛えた力ではない。
ああでもない。こうでもない、ってやってると力を出せなくなる。
ああやれ、こうやれ、で出なくなっちゃう。
何でこんなことしなきゃいけねえんだろう?って。
そのうち武氣が段々充実してきたなら、
それがいわゆる術。呼吸法という術。」

当時の理解はザックリ過ぎて『そういうものなのか』程度の解釈でした。
今現在。この言葉は深みを増して心に座っています。

一か八かはあり得ない

いわゆる”自分探し”に代表される「歴史主義」信仰。
「こんなことしてる場合じゃない!」と思い立ったように何かを始めたりする年若い方々を見ます。
そのエネルギーは大変なものだと思います。続くのであれば。

その発露を自己否定の上に成り立たせるのなら如何なものでしょうか。
”変わらないもの”と”変えてはいけないもの”、
”守るべきもの”を理解した上での進化や深化ならこの上ありません。

「この仕事は自分に合わない」というのも同じです。
『仕事』は携わる個人に合わせてなどいません。
世の中に必要だから『仕事』として生まれたのであって、
むしろそこに理解が及べば自分が合わせることで社会は前へ進みます。

歴史を年表に表せば有事の繋がりです。
現実の歴史は”何もなかったとき”、”何も起こらないように努力した時間”が遥かに多い。
変えない辛抱、守る困難。
年表に載るのは一部でしかないはずです。

心理を廃した『体』という、一定の条件を持った共通する対象。
そこに合わせることで百発百中の『仕事』ができるのが『型』です。

絶対「一」の尊厳性

差別することでの存在の明確化。
「似たもの」はいくらでもあります。
しかし「自ら」は唯一つの存在です。

「斬る」という行為一つとっても素人には見分け難い。
斬るという動きにおいては等しい。
しかし「順序をなぞるだけ」と「型どおり」では質が異なります。

型に身を投げ込む、型に溶け込む、
斬るという「体の働き」と、「剣」という別個のものが
主客とも一色になる。
果ては空じるほどになる。

「一緒」や「平等」は対比による価値です。
「同時」や「同じ」はそれ自体です。

動けば型どおり。
一か八かのない「順序」と「型」の差別。

岩間で完成した「大先生の合氣道」と、理のない独り善がりの「っぽいもの」。
まだまだ”合氣道”という門の前にすら立たせて頂いておりません。

型を学ぶ

一分一厘狂っても技にならん。
”何”から狂ってはいけないのでしょうか。

3日習ったら3日分教えればいい。
「私なんてまだまだ。」は言い訳、ということになります。

理屈は後からついてきます。武道である以上動けてなんぼです。
私は「貰いっぱなしじゃ泥棒だぜ。」と10年以上前に言われました。
言葉のまま受け取れば
”自分だけ強くなれば、知っていれば、それで良い”
という価値観が芽生えることの戒めだと思ったものです。

受け取ったままだと原形のまま保存されます。
追体験しかねる相手にそのまま伝えることは、必ずしも満点の対応ではありません。
その相手に”合わせた”所作と言葉を選び、「自分の言葉」として適切に変換して伝える。
ただし”何も足さない 何も引かない”。
さも教えであるかのように創るなどもっての外です。
「角のドーナツ屋さんの壁の色みたいな」では”角のドーナツ屋さん”を知らない人には伝わりません。

仮に伝えることを前提として受け取るならば、稽古に臨む姿勢も次元も変わります。
教える立場というのは容易ではありません。
弟子の3倍稽古するというのも最もです。
伝えるためには出来なければいけない。理解しないといけない。
良いと悪いの判別をする指針はどこにあるのでしょう。

最新である岩間流合氣道の固い稽古は”お堅い稽古”です。
失伝してはいけないものと思考します。
見聞の狭い己でも、”自由”と”勝手”の区別はつきます。

合氣道と合氣道っぽいものの境界線はあるということです。
説得力とは洗脳ではありません。
俗に堕ちないためにも、絶えず大先生を見て精進が必要です。

「その道場がどんだけのものか弟子見りゃわかる。見てみろ。俺の弟子は皆強ぇぞ。」
憧れの極みです。