絶対「一」の尊厳性

差別することでの存在の明確化。
「似たもの」はいくらでもあります。
しかし「自ら」は唯一つの存在です。

「斬る」という行為一つとっても素人には見分け難い。
斬るという動きにおいては等しい。
しかし「順序をなぞるだけ」と「型どおり」では質が異なります。

型に身を投げ込む、型に溶け込む、
斬るという「体の働き」と、「剣」という別個のものが
主客とも一色になる。
果ては空じるほどになる。

「一緒」や「平等」は対比による価値です。
「同時」や「同じ」はそれ自体です。

動けば型どおり。
一か八かのない「順序」と「型」の差別。

岩間で完成した「大先生の合氣道」と、理のない独り善がりの「っぽいもの」。
まだまだ”合氣道”という門の前にすら立たせて頂いておりません。
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型を学ぶ

一分一厘狂っても技にならん。
”何”から狂ってはいけないのでしょうか。

3日習ったら3日分教えればいい。
「私なんてまだまだ。」は言い訳、ということになります。

理屈は後からついてきます。武道である以上動けてなんぼです。
私は「貰いっぱなしじゃ泥棒だぜ。」と10年以上前に言われました。
言葉のまま受け取れば
”自分だけ強くなれば、知っていれば、それで良い”
という価値観が芽生えることの戒めだと思ったものです。

受け取ったままだと原形のまま保存されます。
追体験しかねる相手にそのまま伝えることは、必ずしも満点の対応ではありません。
その相手に”合わせた”所作と言葉を選び、「自分の言葉」として適切に変換して伝える。
ただし”何も足さない 何も引かない”。
さも教えであるかのように創るなどもっての外です。
「角のドーナツ屋さんの壁の色みたいな」では”角のドーナツ屋さん”を知らない人には伝わりません。

仮に伝えることを前提として受け取るならば、稽古に臨む姿勢も次元も変わります。
教える立場というのは容易ではありません。
弟子の3倍稽古するというのも最もです。
伝えるためには出来なければいけない。理解しないといけない。
良いと悪いの判別をする指針はどこにあるのでしょう。

最新である岩間流合氣道の固い稽古は”お堅い稽古”です。
失伝してはいけないものと思考します。
見聞の狭い己でも、”自由”と”勝手”の区別はつきます。

合氣道と合氣道っぽいものの境界線はあるということです。
説得力とは洗脳ではありません。
俗に堕ちないためにも、絶えず大先生を見て精進が必要です。

「その道場がどんだけのものか弟子見りゃわかる。見てみろ。俺の弟子は皆強ぇぞ。」
憧れの極みです。

七花八裂

水と油を混ぜてもすぐにわかります。
似て非なるもののたとえです。

白という色を否定するために白以外の色を使うのは相対的な認識です。
力を否定するために脱力するのか?
否。

力を否定するために力自らを使う。
粉々に、痕跡も残さぬほど、分解する、分散する、一つ処から抜いていく。
執着をしない、無執着という心情すら留めない。

白銀の器の上に白銀の雪を盛る。
一見どちらも引き立っていないかのような絵です。
力は要らないのではなく要らなくなるのです。
運動という現象がある以上そこには確実にありながら感じさせない。

「わしはただそこに立っておればいい」
別次元であり俗人には理解しがたい境地です。

奇数と風流

割り切れずに無限な奇数。
そこが風流であり面白みです。
何においても割り切れる合理性だけでは趣きはありません。
不合理、矛盾、この面白みはあれど、
ことさらにいびつを求めるのは悪趣味です。
風流を求めつ、しかし囚われればかえって不風流です。
型破りの妙味。規格外れ。
しかしそれは型なり規格なりを修めたうえでできる無軌道の軌道です。
自由に見えて押さえるべき点は押さえている。模倣ではない。求めてなお囚われない。
何も知らない塵のような権威、得意は我流と言えます。

みちのく

道には「関(かん)」という狭い門があると言います。
地上で言えば昔は関所、屋敷なら玄関を通らないと奥座敷へは行けません。
いずれにせよ易々とは行けないということです。
越えなければ奥など解りようがありません。

道という以上自我を出しては通ることは許されない「関」があります。

迷いから悟りへの飛躍は容易ではありません。
相対から絶対へ。
”みんな一緒”へ。

答えが複数でも支障がない。
固体、柔体、流体、気体。
相対的な認識を超えます。
比べるからこその表現。 固い稽古とは? 気の流れの稽古とは?
迷うだけで答えなど出るはずがありません。
「違う」ものではありません。だから「段階的に」と教わります。