因果一如

努力や稽古をしたからいつか上手になるという先の話ではありません。
サボること、正しくない稽古をしかねないのに、
良いものに触れる縁を得たこと、
それ自体が有り難いことです。
良い稽古ができる縁を持ちながらそれができないのはそれ自体一つの罰の形です。

権威やブランド価値の確立。
そんなものを目的とするならどんな稽古も役に立ちません。
人知れず密かに修練を積む。
目立たず、際立たず、認めて欲しいというもの欲しさがせっかくの稽古をマイナスにします。
エゴ的行為。エゴを満たす行為。
これを信心の如く言葉で飾り美化するのは醜悪です。
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風度

人に教える、伝える場合、自身の自己向上に尽力するのは当たり前です。
しかし教える側に回ると多くは自身の不完全に目を向けません。つまり努力を怠ります。
弟子も気づきます。
「良いのか?」と疑義が感じます。
すると教える側は「自分の言うことを聞かなくなってきた」と思い込みます。
ここで師匠離れと同時に弟子離れができない、
”弟子を捕まえておく”という既得権益にすり替わった師弟の関係が生まれます。
入門当初や未熟な時期を一つの基準にして、
「粋がっても、生意気言っても、所詮自分の弟子」
と思い込む。
親離れの速さに子離れがついていけない悲しさです。
良い関係を持てば「自身の気づかない自分」に目を向けさせてもらえ、自分のいたらなさに思いが至ります。
この人ならと思える”なら”に出会っておきながら、その”なら”が全く身につかないまま5年目の始まりです。

心身

風は目に見えません。
しかし仰ぐという行為で肌に存在を実感できます。
灯の揺れにも見えぬ動きを実感できます。

有限のものに無限の動きが内観できるということです。

随分前のことです。
先生に
「強く握るにはどうすればいいですか?どうすればより強く握れますか?」
と聞いたことがありました。
「ただ握るということに注心する。それ以外に何かあるのか?」
逆に問われました。

コツや小細工で見違えるように技の次元が変わることなどあり得ないのです。
その次元の動きの存在を知ってはいても具体的な実感がない。
何かが足りないからだと自信に言い訳するのは休むに似たりです。

風を感じるためにただ仰ぐように。
実践の繰り返しで経験することでしか感じることはできません。
頭を使った稽古の中にのみ萌芽はあります。

主体性

自己の置かれた場所で隙なく精一杯やる。
自己を投入して愛情を惜しまなければそこかしこに意味を見つけることができます。
生きがいを、与えること、味わうこと、耐えること、とされることがあります。
つまり随所作主立処皆真という言葉のままです。

没入して稽古し、疑い、修正し、また確認する。
終わりなき愉しい行いです。
答えは示されているのに、本質を見せて頂いているのに、見えていない事の自覚。

明国の末に興った『六然』
自己にとらわれず脱けきる
人にはいつも和やか
事あれば活気に満ち
無事なれば心澄み
得意の時はあっさりと
失意の時も落ちついて

我々が稽古を重ねるうえで余計な力を抜いていく一つの心持です。

前提 その②

竹刀でのルールある試合では、面、小手、胴ときれいに打ち込んで一本です。
ゆえにその枠組みの中でテクニックを磨き、勝つすべを勉強します。
それは競技体系としての一つの形です。
門外漢から見ても厳しく険しい世界であることは容易に想像がつきます。

標準的な日本刀の重量で1.2キロ以上です。
その剣を振れば剣尖にはその6倍の遠心力がかかります。
人の骨肉を断つには何の苦労もいらない勢いが刀身に乗るのです。
わずかに触れるだけで皮肉は斬れるということです。
鍔越しに拳をわずかに削っただけでも、勝敗に重大な影響を与えます。
体のどの部分であろうと、斬ってさえしまえば著しく戦力を奪います。
技量の巧拙のみでは計れない、不慮の事故の恐れもあります。

「合氣道は皮一枚惜しむ」

我々が己を磨く土壌は前述の前提があります。
しかも対複数で、ルールはありません。